神道講話387号「白山信仰と真田一族」
はじめに
NHK大河ドラマ「真田丸」を見て、毎回真田屋敷の床の間に、「白山大権現」という大きな軸が掛けられているのをご覧になられた方も多いと思います。
真田氏は、東信濃(長野県東部)の滋野系海野氏の一族で、信濃国小県郡の小豪族でありました。
4世紀後半、信濃筑摩郡に入った大伴氏に出自をもつ真田氏は、海野氏から岐れて早く小県郡真田町に定着し、四阿山(あずまやさん)の神護によって、その山麓に広大な私牧を経営してこれを国牧とし、その経済力と政治力とによって信濃国府の創置に力を注ぎました。
山家神社
真田の里の産土神「山家(やまが)神社」の名は、延喜式に記された後、上代中世を通して文献の上に姿を現さなかったのですが、明治時代に復活され、真田町真田に鎮座する山家神社は本社とし、真田町字十ケ原(四阿山山頂)には奥社を祀る神川水系鎮護の神社であります。
ご祭神は、大国主神(大己貴神)・伊邪那美神・菊理媛神であり、「はくさんさま」と呼ばれています。
上信越の白山信仰は、妙高山西北の火打山頂から鎌倉期の十一面観音縣仏が出土していることから白山妙理大菩薩を本地仏として祀る白山信仰が定着したと考えられます。
そしてさらに南下し、北信濃の戸隠にも根を下し、善光寺平を越えた向かい側、上信国境に聳える四阿山に進出し、山頂に奥社の白山宮を祀ったのであります。
山家神社の伝えによれば、その昔真田の里の別当である「浄定(きよさだ)」と言う者が、加賀の白山比咩神社を崇敬してその分霊を勧請し、養老2年(718)に奥社を四阿山絶頂に奉遷し、里宮は建久年間(1190〜99)源頼朝が現今の地に奉遷したものと伝えられます。
「浄定」は飛鉢伝説で有名な「泰澄」の弟子とされる「浄定」と同名であり、そうした伝説に依拠して白山権現の勧請者に仕立てたものと考えられます。
真田一族の使命
作家童門冬二氏は、“日本一兵(ひのもといちのつわもの)”として
『真田幸村の儀とは、支持者の全てを肯定する幅広い・奥深い人情の持ち主であり、人々は信頼感と安心感によって絆を保っている。いわば“微笑みながら正義を行った武将“といえる。
そして正義を行うには、行う人物が正義の人であること・善悪に対して“判断基準“をもつ・眼前の現象に、ひるまず善を勧め悪を懲らしめる勇気と力をそなえ・決して自ら誇らないこと・去就に淡々とし・進退がさわやかであり、一族が伝承してきた「皇祖」を誇りとし、小県郡を理想郷化する歴史的努力とこれを守る護民官としての真田一族の使命は“故郷愛”と“住民愛”だ』
としています。
無綾地(むりょうじ)の旗は、真田家使用の旗印で「六連銭」「六文銭」とも呼ばれます。その意匠は三途の川の渡し賃である六文銭を意味し、「死を恐れずに戦う」という気持ちが込められています。
そして、大阪城の真田丸は「真田一族は今までいかに生き、今いかに滅びるか」を示す場でした。
山家神社復興と信念
山家神社は、明治の大改修後、ご社殿等々の痛みもひどくなっておりました。
昭和49年就任の宮司押森弘文氏は、役所に勤めながら行政にまた神明奉仕に力を注ぎ、平成13年には「平成の大改修」により100年の思いであるご社頭、ご社殿の面目を一新され、いよいよ白山信仰のご神徳発揚に力を尽くすところ、國學院大學弓道部主将として鍛えた体も、病には勝てず、平成17年10月に帰幽致しました。誠に残念の極みでありました。
押森宮司は、大改修記念誌の中で、
「山の木を大切にすることが、水を守り、作物を守り、そして郷土を守ることであったのだろう。歴史の舞台に登場した真田氏中興の祖幸隆以来、真田一族は郷里を追われることがあっても決して真田の地を忘れることは無かった。親子兄弟が縁を切った火伏の別れも、広い意味で考えれば、一族は元より、郷里の真田の地を大切にしたいという念からのことと思う」と、
そして
「治山治水は政の永遠の命題であろう。自然との共生と言う前に、先人の教えに思いを起こし、水を守り、山の樹々を守る生活を取り戻すことが必要ではあるまいか。そして何よりも大切なことは、それを実践するのは我が人間である。人間も自然の中の重要な一員であり、且つ自然の中の一員として生かされているのである。」
と述べています。
むすび
真田一族の守護神「白山大権現」を祀る長野県上田市(旧小県郡)真田町真田に鎮座する真田一族の氏神「山家神社」。真田信繁(幸村) ※1をして白山信仰の神髄は今も山家神社に受け継がれている。
北陸新幹線が昨年3月14日に開通し、長野の真田町も近くなりました。毎週の大河ドラマ「真田丸」を見ながら西、東より真田町を訪ね山家神社を参拝して頂き、真田一族しいては白山大権現、白山信仰の一端を感じて頂ければ幸甚であります。
【参考資料】山岳宗教史研究叢書9「富士・御獄と中部霊山」