白山比咩神社のコラム「神道講話359号」を掲載しています。

神道講話

神道講話359号「自然の中で生きる」

自然とは「作為の伴わないさま。人工によらないで成り立っているさま。人間の力では、どうすることもできない状態。ありのまま、山川草木その他すべての有形的現象。認識の対象とならないいっさいの現象」とある。

はじめに

この度の東日本大震災とそれに伴う津波は、自然現象と呼ぶにはあまりにも大きな被害で、まさに天災と言ってよいのではないかと思う。(福島の原子力発電所の事故は別として)
このような地震や津波は、貞観の大津波とか安政の大震災など、幾度となく経験してきているはずなのにその教訓が生かされなかったのは残念な事であります。

荒ぶる神と恵みの神

白山奥宮遥拝所

古来日本人は、巨大な岩を磐座(いわくら)とし、大樹を神籬(ひもろぎ)とし、そして清らかな泉に人智を超えた神秘なる空間として神々の存在と尊厳を感じ、時には「荒ぶる神」として激しい霊威を発揮し、人間社会に災禍をもたらすような神霊に対し、深い畏怖の念を以て鎮魂の祈りを捧げ、また一方では大自然の恵みに畏敬と感謝の情を以て神々を祀ってきました。
そして目に見えないものこそ大切にする、神聖な息吹きを肌で感じるという感性を認めてきたのであります。

白山の自然と恵み

白山は神体山であります。 神体山とはもともと人が簡単に立ち入れない山であり、神々の世界でありました。 また山は、人々に水をもたらす大切な場所であり、人の手の届かない、天に最も近い世界でもありました。
樹木に覆われた薄暗い山奥や、登ることの困難な常に白銀に包まれた山頂は「白き神々の座」としてふもとより拝する霊峰でありました。
そして白山は、養老元年(717)に僧泰澄が入山して以来、修験の山として自然界の命の営みに神性を見出し、自然の大いなる力は、神の力であると崇拝されたのでした。 その自然の中で「生きる」ということは、「生かされて生きている」ということであり、そこでは“自分の身は自分で守る”ということが鉄則なのであります。

平成18年 野口健氏白山登拝

冒険家の三浦雄一郎氏や野口健氏にお話を伺ったことがありますが、「自分の荷物は自分で背負う。他人に預けた段階で命を捨てる事になる」と。 「風の音で天候を知り、氷の欠ける音で気温を知り、人間の五感を研ぎすまして初めてアルピニストになれるのだ」と。 「“山を征服なんておこがましい”我々は自然と、そしてその神々によって山に入らせてもらっただけなんだ」とあくまでも謙虚でありました。

野口健氏は本年8月9日〜10日に白山清掃登山として入山される予定です。

おわりに

白山の美林に讃す

今年も白山は夏山を迎えました。
本年は残雪も多いですが、その分雪渓もきれいであり、水不足の心配がいらないということです。
陽当たりの良いところでは、可憐な高山植物が黄色や白色やピンクの花を咲かせ、疲れた体を癒してくれます。谷間では、ウグイスやカヤクグリの声が聴こえます。そして肌に触れる風の心地よさ、新緑・深緑の爽やかな香り、ちょっと腰をおろし口いっぱいに頬張るおむすびの美味しさ、そして夜空の満天の星とすばらしいお日の出。
まさに「生かされて生きている」という実感なのであります。
大自然の息吹きと恵みに感謝して、さあ元気を出して今年も白山でお逢いしましょう。


白山の花