白山比咩神社のコラム「神道講話417号」を掲載しています。

神道講話

神道講話417号「丁寧」

浄衣、マスクにて神饌を調製(例大祭)


◆ はじめに

私たちが日常使用している敬語は尊敬語謙譲語、そして丁寧語であります。
近頃の学校教育では敬語を教えない傾向にありますが、だからといって、目上の人や年長者にぞんざいな口調で話すのはいかがなものでしょうか。 ましてや最近、公の放送でも「○○だそう」と言って「です。」ぬきが多く使われています。 また、若い人々の会話では「マジで」・「スゴイ」・「ヤバい」この三つの言葉で物事の会話が成り立っているという恐ろしい時代になってしまいました。

尊敬語とはたっとび、うやまうこととして、人や、その人に属する物ごと、動作を高めて表現することばであります。
謙譲語とはへりくだって、人に譲ることとして、話題の人、主に自分や自分側の人に属する物ごと、その行なう動作などを含めて表現し、その相手方を高めることばであります。
丁寧とは丁重ということで、ゆき届いて、礼儀正しいことをさし、注意深く大切にあつかうこととしています。 従って丁寧語とは事柄をていねいに述べて、相手に敬意をあらわすことばとしています。
「口は禍いの元」といいますが、陰口、ため口、悪口等は厳につつしまなければならないと思います。

マスク(覆面)を装着して濃茶・淡茶を調製(武者小路千家 献茶祭)

◆ 丁重に

神様にお供え物をする時は丁重に、捧げ持ってお供えします。
つまり三方(さんぽう)でも折敷(おしき)でも鼻息がかからないように、目の高さで持ち、更に覆面(マスク)をして恭うやうやしく丁寧にお供えするのであります。 もちろん神饌調理でも浄衣にマスクは欠かせません。
祭典ではこの後、祝詞奏上となるのですが、この祝詞も恭しく且、丁寧に奏上しなければなりません。
喉に力を入れ、いわゆる濁声(だみごえ)は適しませんし、澄んだ声で奏上し祝詞の最後には恐み恐み(かしこみかしこみ)も申すと言いますが、この「かしこみ」も以前は「恐み畏み(おそれみかしこみ)」と書かれており、又「畏み畏み(かしこみかしこみ)」や「惶み惶み(かしこみかしこみ)」とか「謹み謹み(かしこみかしこみ)」と記されておりましたが、現在では「恐み恐み(かしこみかしこみ)」が多くなりました。
いづれにしても、恭しく奏上するのであります。

神饌に息がかからないように目通り(鼻より上)に捧げ持つお供え物

◆ 鏡

ご神前にはが備えてあります。これは「彼我見(かがみ)」と読めば解りやすいと思いますが、彼方の自分と対峙するものであり、自分の「祈り」を写し出すのであります。
「祈り」とは以前にも申し上げましたが、強調の「い」に「宣る」つまり宣言するということで、神様に強く宣誓するといった意味であります。 そしてその「いのり」全てが丁重に扱われた時、神様からも丁寧にお導きいただけるものと思います。
つまり神様でも人でも、自分が丁寧な言葉で相手を丁重に扱えば、相手も自分を丁重に扱ってくれるのであり、ぞんざいに扱えば自分も相手からぞんざいに扱われるのであります。
「子供は親の背を見て育つ」と申しますが、正にその通りで「鳶は鷹」を産みませんし、「蛙の子はオタマジャクシ」であり蛙の子なのであります。
花や野菜は毎日水をやり、雑草を取り除いて手をかければ掛けただけ、美しい花が咲き、美味しい野菜が出来る道理であります。 犬猫にしてもその通りで、躾を正しく教えれば、教えたように行動します。 人の子も同じで、育てた様にしか育たないのであり、育てた様に育ったのであります。
老若男女だれにでもやさしい言葉で笑顔で接すれば、丁寧な言葉でほほえみが返ってきます。

手入れの行き届いた花壇(鶴来中学校)

◆ むすび

ことばと云うものは「こだま」であり「言霊(ことだま)」であります。
自分が発する言葉は、自分を表現する一つの道具であり、他人の言葉は他人を理解するのと同様に自分に物事を教え、気づかせる大切な道具です。 これに目・鼻・耳・身体が伴い、五感を浄め、神様にも人にも接した時、大自然と一体となり、美しい心が生まれるのであります。
きれいな心で、きれいなことばで新しい年度を迎えましょう。
誹謗中傷は天に向ってツバをはくようなもので、必ず自分に返って来ます。
自分一人で生きているのではなく、周囲の人にも気を配り、より良き社会を築きましょう。