白山比咩神社のコラム「神道講話394号」を掲載しています。

神道講話

神道講話394号「白山信仰と開山一千三百年」

はじめに

神道とは聖なる実在を意識し、人として生きるべき生活上の道を仰ぎ求める心構えと、同時に生に対して感謝を捧げる実践を云います。
原初神道を自然崇拝と呼び、山岳崇拝、樹木崇拝、厳石崇拝などと称し、古来より山は「神山(かみやま)」として神聖視されてきました。それは①形状が秀でている②火山である③全山樹木に覆われている④気象の関係(晴や雨・雷電など)⑤付属の自然現象(河川・温泉・池など)によって畏怖と畏敬の念を持って崇敬されました。

山岳信仰とは

山岳そのものを崇拝の対象とするもの、あるいは山に坐す神霊に対する信仰を云い、山上の祭祀も総称しています。 その山々を水分山(みくまりやま)・御室山(みむろやま)・神奈備山(かんなびやま)あるいは御岳(おんたけ)という呼び名で、山の恩恵を得て生活を営み、農事に勤しんできた人々の信仰であります。
また山を越す旅人も山に住む神に手向(たむ)け(神仏にお供えする物)るのも習わしで、峠の語源とも云われます。

転法輪の窟にあったと伝えられる十一面観音。噴火の爆風に破損したとされる(白山比咩神社宝物館蔵)

神仏習合

奈良時代の霊亀年間(715〜7)養老年間(717〜24)各地の神社に神宮寺が建立され、神前読経が行われ、神仏習合が盛んになり、平安時代には本地垂迹説が発生します。そして、平安末期には白山の本地が十一面観音など、神社の祭神の本地に具体的な仏教菩薩が充てられるようになりました。『老子』を典拠とした天台教学に取り入られた和光同塵(光を和らげて塵に同ずる)も本地垂迹の理念を表す語として流行しました。熊野権現や白山権現などの「権現」号も「仏が権(か)りに神として現ずる」の意であり、本地垂迹説に基づく神号として十世紀前半に出現しました。
この流れの中、泰澄が白山に登頂。山頂の翠ヶ池で十一面観音を感得したのが、養老元年(717)6月18日(旧暦)とされています。
この神仏習合あるいは神仏混交・融合は、明治維新まで続きました。

神仏分離

このような神仏習合の風潮の一方で、神事においては仏法を忌避すべきであるという観念が存在し、儒学や国学の勃興とともに仏教の宗教的権威が相対化され、排仏的風潮が高まっていきました。
それに伴い神仏習合色の強い神社において、神職の別当寺支配への抵抗行動が起こり、あるいは寺請制度と結びついた仏葬への反発から神葬祭運動が起こりました。
明治維新の慶応4年(1868)4月には仏教風の神号の廃止、仏像を神体とすることの禁止、神前の仏器仏具の撤廃などを内容とした神仏判然令が維新政府から布告され、神仏分離が行われました。
そして明治6年(1873)には、修験道が廃止されました。
一部では本地仏・仏具や別当寺を破却・廃棄するなどの過激な廃仏毀釈事件が起こりました。
そのため大切な仏様は、神社の御本殿内に隠したり、御本殿床下に安置して難を逃れようとしました。
白山では室堂や登山道の仏像は廃棄され、もしくは破壊され、一部は山から降ろされました。越前室の下山仏は旧白峰村の白山本地堂に祀られ、加賀室の下山仏は旧尾口村尾添の白山下山佛社に保管されています。
戦後は神社が国家管理から離れたため、民衆に根強い信仰のある神仏習合儀礼を復活し、現在でも仏教系の諸宗派において、また神社において神仏習合の様式を取り入れた祭典・仏事を営む神社や寺院も存在しています。

室堂平 永平寺法要(神職参列)

むすび

霊峰白山は「神山・神体山」としてまた「白き神々の座」として古来より崇め祀られてきました。
明治4年、白山比咩神社は国幣小社に列せられ、明治10年に白山比咩神社を本社とし、嶺上の神祠を奥宮と定められました。
昭和26年(1951)6月1日、白山奥宮境内地3000町歩が白山比咩神社に無償譲与され、戦後は昭和30年(1955)7月1日、白山奥宮境内地を中心とする4万1000ヘクタールの地域が国定公園に指定され、昭和37年11月には、4万7359ヘクタールの面積を有する白山国立公園が誕生しました。
古来信仰の山、神体山として護持されてきた原始の自然景観と穏やかな山容と豊富な学術資料は高く評価され、また分水嶺として石川県の手取川、福井県の九頭竜川、岐阜県の長良川、富山県の庄川に豊かな神水を供給し、雄大な大自然は、生きとし生けるものの命の親神様として後世に護り伝えられてゆくことでしょう。

護衛艦「かが」就役記念 浅蔵五十吉作陶板「霊峰白山」