白山比咩神社のコラム「神道講話388号」を掲載しています。

神道講話

神道講話388号「まどろみの間」

はじめに

加齢のためとか、医学的にとか、何だかんだと科学的な説明がつくかも知れませんが、事何かが起こったあと、心に胸の内に沸々と湧き上がってくるのは「何かを忘れ、何かを成し得ていない」自分への後悔の念が焦りにも似た感覚で襲ってきます。
人は自分のことはさて置き、他人を許すことをせず、責めたてたがりますが、それを自分に置き換えて考えてみることが、必要ではないかと思います。

最高裁判決

認知症の男性(91歳)が、徘徊中に電車にはねられた事故をめぐって、家族が鉄道会社への賠償責任を負うかどうかの訴訟で、最高裁は「監督が容易ではない場合は、家族に責任はない」と判断しました。
在宅介護は、経験した人でなければ、その苦労は判らないといいますが、朝に、昼に、夜に関係なく24時間介護するのは至難の業であります。識者は「懸命に介護してきた家族にまで負担を押しつけるのはおかしい」と言っております。まして事故に遭われた男性の妻は85歳であったそうです。

最高裁判所

この事案について、鉄道会社は「個々にはお気の毒な事情があることは十分に承知している。最高裁の判断を真摯に受け止める。」とし、また男性患者の長男は「最高裁で大変温かい判断をしていただき心より感謝申し上げます。良い結果に父も喜んでいると思います。いろいろなことがありましたが、これで肩の荷が下がり、ほっとした思いです。」とのこと。
判決文に介護の切実さがうかがえます。男性が外出したのは、85歳で高齢の尚且つ介護認定を受けている妻が「まどろんで目を閉じている間」といいます。
疲れもあったであろうと思われるその「まどろみ」を誰が責めることができるでしょうか。

公園で憩う高齢者

人をみることの大切さ

愛知教育大学長の後藤ひとみ氏は、「見る」は「目+ひとあし」の漢字が表すように、最も一般的な「みる」であります。
「観る」は観察や観劇などに使うように、全体を合わせて見渡す、状態をみる、念を入れてみるという意味があります。
「診る」は、診察や診断などに使うように、みて判断し、調べて評価するという意味があり「看る」は「目の上に手をかざしてみる姿」の漢字から、気を配って世話をする、手と目でみるというときに使います。
「視る」は「示(まっすぐさす)+見」の漢字で、視線をまっすぐむけてよくみる、じっとみるという意味があり、直視や注視などに使われます。
家族や友人の状況を理解するには、ただ「見る」のではなく、心身の状態を意識して「観る」・その状態の根拠となる情報を「診る」・言葉かけだけではなく、手で優しくふれながら「看る」、相手への気遣いをもって「視る」ことが大切であると言っています。

赤子の頃は肌を離さず
幼児の頃は手を離さず
児童になれば目を離さず
青年になれば心を離さず

初宮詣

むすび

「雲上在天」という詞の一節に、[その眼は開いているか]として、

曇りだ雨だと嘆く者を尻目に、雲の上の太陽を、月を、星を見通せているか。
動かぬ種を見て、そこに芽吹きを見、繁茂を見、開花結実までを見通せているか。
のんびり生きるのは嬉しいことだが、ぼんやり生きては話にならぬ。
この世には一筋の道・法がある。何が何に通じ、何が何を生みなしているか。
常にその道を、法を見ていたならば、闇に光を見、種に花を見ることも難しくない。
過去の経験を活かすことができれば、新たな局面にも恐れはない。
理不尽と矛盾と束縛の中を、ちゃんと生き抜いてきたのだ。
その時には、閉じたふりをしていたとしても、経験はすべて残っている。
必ず己を活かす場が用意されている。
それがいつなのかは知らぬ。
時が来て慌てぬよう。
眼を開いておかねばなるまい 雲上には、常に天が在り続ける。

厳かな山々と向き合い、木々の人智を超えた力に思いを巡らせ、大気を浄化し、豊かな水を生み出してくれる神々、山や樹木、そして大自然とその恵みに感謝の真心を捧げ、日々おだやかな心で過ごしたいものです。

自然の力