白山比咩神社のコラム「神道講話376号」を掲載しています。

神道講話

神道講話376号「いいかげん」

はじめに

今年の歳明けに作家の曽野綾子さんがテレビの番組の中で「いいかげん」について話をしていたのを思い出します。「0でもないが100でもない」人間は100を目指して生きているが、その完全主義が人を傷つけたり、悩み苦しんで人生を縮めてしまう人が多い。又、逆に自分は0に近いと考えて自虐的になり落ち込んでしまう人もいるが、物事「いいかげん」に考えるほうが私は好きだという内容でありました。

好加減

小学館の新選国語辞典には「いいかげん」は好い加減として、
 1、(名詞)(形容動詞)
   ①ちょうどいい程度・ほどよいさま。適量。適当。「ーの温度」
   ②やり方・態度などがなまぬるいこと。不徹底。「ーなことでは解決しない」
   ③無責任でなげやりなようす。深く考えないでおおざっぱなさま。おざなり。「ーな演技」
 2、(副詞) かなり。だいぶ。相当。「ーたいくつした」
とあります。
また、日本国語大辞典にはより詳しく(連語)として「よい加減」の変化したもの。ちょうどよい程度(形容動詞)では①かなりの程度であるさま。「いいかげんに」の形で、かなりの程度までいっているので、もうほどほどにしたさま。や、「宜加減」と書いて「イイカゲン」等々古典文学を引用しての解説があります。

良いいいかげんと悪いいいかげん

私たちは普段何気なく「いいかげん」ということばを使っています。たとえばお料理などで「いいあんばい」と称した塩加減。ちょうど良い時や程良い甘さなどの時に「よろしい加減」を「好加減」と言い、生活面ではお風呂の温度、温泉の温度も「好い湯加減」と言っています。これは熱いでも暑いでもなく、寒い冷たいではない温かい(あたたかい)思いやりの心が込められています。マッサージや、痒い時に背中を掻いてもらった時など適当な程良い力加減も「好い加減」気持ち良いと言います。
又、相手が人であった場合は「いい加減な俺」とか「いいかげんな奴」とか「いい加減な人」とかあまりよい意味では使いません。つまりこの「いい加減」は良い意味にも悪い意味にも使われる言葉であります。

人のいのち

最近の新聞記事では中東の国々で活躍する「アルジャジーラ」というテレビ局が「今の日本は世界で最も不思議な国と思う。なぜなら1年間に孤独死する人が33,000人。自殺者が32,000人。合計65,000人の生命が1年間で消えている。中東で戦争が起こっても1年間に65,000人の死者は出ない・・・・・・。」と。
私たちは戦前・戦中そして戦後間もない頃、一つ屋根の下で親兄弟全員が食卓を囲み、楽しかったこと、苦しいこと、悲しいことなどなど、1日の出来事を皆で報告しあい、薄暗い部屋で共に学び、家族みんなが「思いやり」の心で腹八分目の生活をして来ましたし、我慢もして来ました。
それが現代社会においては核家族化し、食事も家族全員揃って食べることがなくなり、自由にいつでも調理済み食品やファストフードで満腹になるまで食べ、我慢することを忘れてしまったように思います。そして、人と人とのつながりが携帯電話やメール、チャットなどに依存し、「手かげん」ということをわからず、親から頂戴した大切な大切な生命を奪い、又、自らも落としてしまう現実は、人として「神意に叶っている」と言えるのでしょうか。

昭和30年代の食卓

おわりに

人生は今を積み重ねて成り立っています。過去の今によって現在があり、現在の今は未来を作ります。神道には「中今」という言葉がありますが、今日が本番、今が本番、この一瞬こそが本番という覚悟で今を生きましょう。
そして、もう一度「0でも良いが100でも良い」、「いいかげんな人」ではなく「好い加減」が分かる人になりたいですね。卵などでは「生たまご」でも良いが、「堅ゆでたまご」も美味だし、「温泉たまご」のように半熟もまた良いように適当にほど良い加減で心豊に、そして、ご先祖に、神様に「ありがとう」といえる人生を送りたいものです。