白山比咩神社のコラム「神道講話366号」を掲載しています。

神道講話

神道講話366号「あとのまつり」

はじめに 〜語源の由来〜

『後の祭り』とは“祭りの済んだ翌日”とか“手遅れ”など時機を逸して後悔の念を表す言葉とされています。
語源の由来は、大きく分けて2説あり、細かく分けると4通りの説があります。
大別の1つは、京都八坂神社で7月1日から約1ヶ月間行われる祇園祭のうち山鉾と呼ばれる豪華な山車が沢山繰り出される17日の山鉾巡幸を「前の祭り」と言い、24日の還幸祭を「後の祭り」と言ったと伝えられています。 そして、古くは神幸祭ではなく、還幸祭を祇園会(祇園祭の古称)と呼んでいました。 この「後の祭り」山鉾巡幸は、昭和41年に廃止されたのでありますが、この祇園祭でいう「後の祭り」は、山鉾も出ず賑やかさがなく、見物に行っても意味がないことから、手遅れの意味になったとする説があります。
また祇園祭と似た説では、祭りが終わったあとの山車は役に立たないことから「後の祭り」と言うようになったとする説や、祭りが終わった翌日は、見物に行っても意味がないという説。 どこの祭りと断定されているわけではないが、祇園祭の説から派生した語源説もあります。

祇園祭 山鉾巡幸

大別の2は、葬式や法事など故人の霊を祭ることで、亡くなった後に盛大な儀式をしても仕方がないことから、「後の祭り」として、後悔の念や手遅れの意味で使われるようになったとする説。
一般的には祇園祭の説が有力とされていますが、語源は話題作りの手段として作られることもあり、故人を祭る「後の祭り」の方が有力との見方もあります。
(語源・由来辞典より)

還幸祭の重要性

さて、なぜ還幸祭が祇園会なのでしょうか。
中外日報の「風鐸」欄で武田智彦氏は、神輿(みこし)の経路にそのヒントがあると述べております。
還幸祭の経路は、室町時代から近世までほとんど変わらず、必ず三条周辺を通っており、そこには古代に国家的祈祷が行われた神泉苑という庭園があり、その神泉苑は最初に祇園会を実施した発祥の地とされています。
今も三条御旅所が旧跡の南端にあり、この地を神輿が通って行くことが目的で、神泉苑への渡御が中心であり、その還幸祭が重要であったと考えられるとしています。
そして、還幸祭の「露払い」としての「後の祭り」の山鉾巡幸は、是非とも復興させたいと述べています。

本来の神まつり

「まつり」を考えると、本祭りの前は、宵宮として予祝の祭りを行い、次の日に「本来の祭典」が斎行され、その後に、「直会(なおらい)」によって神様のお下がりを共々に頂戴し、そして、「後宴祭」や「後宴能」として神人和楽の神賑わい行事が執り行われると考えるとき、宵宮は「前の祭り」であり、後宴祭は「後の祭り」と考えても良いのではないかと思われ、この一連の「まつり」こそが本当の祭礼ではないかと考えます。
奈良の三輪明神大神神社(おおみわじんじゃ)は、4月9日の大祭のあと後宴祭が執り行われますし、金沢の大野湊神社では、5月15日の例祭のあと、境内で加賀宝生流による能が二番も奉納されます。

大野湊神社 能「杜若」

明治天皇御製 とこしえに 国まもります 天地(あめつち)の神のまつりを おろそかにすな

おわりに

そのように考えると、「前の祭り」と「例大祭」と「後の祭り」を斎行し、神人共食、神人和楽があってこそ、本当の神まつりではないかと思います。 その「後の祭り」が省略されたり、規模が小さくなったりしてしまったら、それこそ「あとのまつり」となってしまうのではないでしょうか。

どぶろく祭 写真提供 岐阜県白川村役場

9月・10月は秋まつりのシーズンを迎えます。おごそかに神事を行い、神様の恵みに感謝しましょう。